聖乞食だった聖徳太子

中国南方、韓朝半島から九州や出雲に渡来した人々がいた。韓朝半島では、雄略のように戦い暴れまわり、好太王のように激戦した記念碑も残っている。そして馬韓弁韓辰韓任那、南端の海民、北方では高句麗、扶余などが南下し、百済新羅などが建国された。それら諸国、諸部氏族の中から枝分かれした小集団数人が渡来し、その中には秦氏のような職能集団もあれば、韓朝の王統に繋がる者や、戦争敗北の将兵冒険者、放浪者、芸能者、難民もいたに違いない。稲などタネ、漁、猟用具や舟を作る道具など所持してやってきたのだ。新天地と聞いて(米国が新大陸だったような思いで)やって来た人々も致し。敗残者もいたに違いない。
いずれにしても、海を渡る舟上の天水(ひょうたんとか壺)、釣り用具、到着後の生活手段、狩猟、火起こし、採集、漁民系民系、とくに稲の耕作技術をもってやって来た人たちがいた。なんとなくよさそうだから来た人もいただろうが、何らかの生活技術をもって意図して来た人々が多かったに違いない。〈進出の気を持つ〉部族としてやってきて、じわじわと大豪族、クニを成す部族の枝分かれグループも現れたと思われる。
騎馬民族が九州に定着したのは故地の出自の馬を扱い育て売る技術を持っていたからだし、海民系やの伝統、生活技術を持つ人々もいた。九州、出雲、そこから吉備、ヤマト河内に入った人々もいて、互いに小集団、部氏族と棲み分けていったに違いない。そして、日本列島(西部)の政治宗教軍事、生活技術、文化の基盤となった。
中国は春秋戦国から紀元前221年、戦国の群雄たちの中から全諸国に勝利した秦が統一(帝国)を達成。始皇帝は文字の統一、度量衡の統一、統一規格の道路網の整備、万里の長城による国境を画定し、周辺諸族を〈外敵〉とし排除対抗とした。焚書坑儒思想統制した。その後、魏呉蜀の三国時代から現大日本人にも人気がある英雄たちが登場する。
韓朝半島は馬韓弁韓辰韓伽耶など小国から、300年代には(369年)百済と関係深い(らしい)ヤマト河内が近畿最有力豪族となり、新羅は倭の勢力(たぶん筑紫勢力、神功皇后ら)と交戦し伽耶諸国を支配する。
ところで、古代には戦争には宗教も付きまとうもので、新羅百済高句麗から出た族長で、高句麗の北方文化が染み込んいたと思われる。倭(日本)の源泉、縄文には南方の生活習慣や文化圏の人々が琉球から九州へ移住してきたが、弥生時代には高句麗出自の百済新羅と関係している人たちが渡来してきたのだ。(むろん中国世界の関係、影響を受けていたが、ここでいうのは影響ではなく、関係があったと述べている)。その人たちが日本のどこの地域、クニグニであったかが日本歴史はタブーのように解明していない。が、日本列島が渡来人(弥生人)が豪族として優位になり、クニグニとなり、各地域で支配的になったことを否定できない。とすると、日本列島は韓朝半島国々と、古代的に親密な同胞で、特に首長たちは兄弟姉妹的、親戚的な関係があったからこそ、倭という列島内の統一首長(天皇)をどのクニが取るか、決着を付けなければならなくなった。もっとも決着の仕方は不明なままだ。現代からみれば、ありそうなのは武力対決だが、考古学の発掘からは戦争の痕跡はほとんど見当たらないそうだ。シャーマンがまだ権威を保っていたと見られるので、シャーマンが決めたということは考えられる。